2012年5月25日金曜日

石巻市の現状

ここ石巻市では、12月を最後に5か月も住民説明会がないままの状態である。
一向に進まない現状がここにきて地域間の格差が生じている。
住民も半ばあきらめ顔で、独自にリフォームや再建に動いている。
災害公営住宅は1万5000戸、そのうち石巻市が4000戸であり、平成27年度までずれ込むこ
とが判明した。
場所も不確定で、沿岸部から遠い地区に居住となった場合、一時期仮設住宅の設置場所

で問題があった場合と同じになるケースが予想される。
多額の予算を投じる前に、十分検証して被災者のための整備を是非行ってほしい。
また石巻市は水産加工の町でもある。
指定拠点漁港の整備だけではなく指定から外れた漁港の整備、そして中小加工業者への

逸早い再建への助成を行っていただきたい。

2012年5月24日木曜日

笑顔(^0^)届け隊!

毎月、第2・第4の週末、石巻市に復興支援に来ているボランティ団体がある。
笑顔(^0^)届け隊!(代表:藤吉裕二氏)である。
埼玉県川口市に本部があり、既に26陣の支援活動を行っている。
支援物資の提供から、炊き出し、今でも続くがれきの撤去や側溝掃除など支援活動を継続している。
4月28日には、松厳寺境内で一足早くこいのぼりや屋台を準備、子どもたちは元気な笑顔をみせ駆け回っていた。
子どもたちの笑顔は、大人まで元気づけてくれる。
無邪気に遊び、笑い、語らい、笑顔が自然とあふれてくる。
この一人ひとりの支援が、全国民の絆となり、継続していくことを強く希望する。

2012年5月16日水曜日

石巻市沿岸部のかさ上げ

石巻市では沿岸部地域の建物を撤去しかさ上げ工事をすることになっていたが、現状で建築物の改修が進められる地域もでてきた。
松並地域に住んでいる住民からは、建物の撤去もせず、かさ上げもせず、そのまま建物の改修工事をし住めることになったという。
女川海道398号線より沿岸部の地域は、1mほどのかさ上げ工事をすることになっていた。
この地区は一般住宅や中小企業の建物が立ち並んでいるところで、全壊した家屋もあったが、半壊の建物も相当残っている。
今ではかさ上げもせず、1階の補修工事を進めているところも数か所ある。
どういう基準で整備計画が変更可能になったの?住民への説明会がないまま進んでいるのか?
いくら防波堤の高さを6m~7.2mにしたからといって、決して安心できるものではない。
明確な基準を示してほしい。

2012年5月9日水曜日

がれきの山

ここは石巻市のがれき置き場。
天高く、あちらこちらで積み重なったままのがれきが残っている。
4月になって、がれきの受入れをする自治体も増え、10年計画で策定した復興計画に目処が出始めた感じだ。
しかし沿岸部では、まだ解体していない建造物がやたらと目につく。
公共建築物、民間工場建屋、一般住宅、車、船、海のがれきなど順次撤去しなければならない。
これからもまだまだ続く解体作業、かさ上げ工事、河川工事の復旧に高台移転の取り組みなど、課題があまりにも多い。
ハード面が整備されたとしても、ソフト面ではどうなのか?
沿岸部での就労問題は実に深刻である。
加工場の被害を受け、中小の下請け会社が再開できるかも危ぶまれている。
今まではそこには地元住民の力があったのだが、人口も減少し、他地区へと移住する方々も決して少なくはない。
また沿岸部では外国人就労者の方も多く、今後の取り組みも真剣に考えていかなけれなならない。
この未曾有の災害により、日本国民が一体となって取り組んできている。
この絆の取り組みを大切につないでいきたいと考える。

2012年5月8日火曜日

沿岸部の解体建物

石巻市沿岸部では、一向に解体が進まない建築物がまだ多く取り残されている。
一般家屋、工場建物、公共建築物など、本年度から解体作業が進んでいるが、分別をしながらの撤去はまだほど遠い現状のようだ。
小中学校の校舎も高台に移転するところもあれば、統合されるところもある。そして解体し、その場所に建てるというところもある。
解体作業するまでで1年、建築がはじまって再開できるまで2年を要するという。
しかも、かさ上げもしなければならず、はたして町は10年で復興するのであろうか?
被災地住民は地元で復興をと願っているが、若者や子供たちが沿岸部から遠ざかり、人口の減少が著しい。
仮設住宅に入居した住民は、戻るのか、それとも別の地区で生活を共にするのか?
町は高齢者が多くなり、終いには過疎化となり、町は廃れ文化も何もかもなくなってしまうのか?
まだ将来が見えずじまいだ。

2012年5月6日日曜日

雄勝町の水門

漁港近くには防波堤と水門が一体で設置されているが、この3.11の震災で津波の影響でほとんどが人命を守ることがなかった。
十数メートルもの高さの津波で防波堤や水門が破壊され、沿岸部の住居を瞬く間に呑み込んでしまった。
ここまでは波は来ないだろうという住民の行動にも問題があったが、減災できるプログラムを早く立ち上げることが重要である。
石巻市の方針は、ここまで波が来たから、高台に移転し、住居を構える。それだけでは昔ながらの文化や社会が消えてしまう。
もう少し故郷という町を大切に残していく文化を築いていかなければならないのではなかろうか?
近代的な町に戻ったとして、憩や安らぎが心の底から湧いてくるのだろうか?
町として、人として、掘り起こせるものは早く進め、それぞれの文化の発展に努めるべきである。

2012年5月5日土曜日

高橋商店作業風景

3.11の津波により被災した高橋商店が、3月末日に養殖ワカメの出荷にこぎ着け、GW連休も返上で得意先や全国の注文者への作業で追われている。
震災で倉庫や工場が被災し、何一つなくなった状況からここまで立ち上げることになった経緯は並大抵のことではない。
多大な借金を抱えてまでの創業は、やるべきなのか?いっそ店じまいをした方が楽ではないのか?と半年間悩んだ末の決断であった。
ワカメやヒジキ、とろろ昆布が食べたいと、全国から寄せられた励ましの電話や手紙をいただき、お客様の声が高橋水産の復興に力付けをしてくれた。
今や2代目社長が営業に駆けずり回っている。石巻市はもとより、仙台市や大崎市でも三陸産ワカメとしてスーパーや商店街などで販売されている。

9月には、天然もののヒジキが収穫できるという。
1年半もの時間が経ってしまったが、楽しみにしているお客様のためにも、雄勝町の特産物を届けることができると、一家総出で作業に追われている。

2012年5月4日金曜日

杉山澄夫先生作品展

4月29日(日)大崎市民ギャラリーで杉山先生の作品展が開催された。
津波から掘り出された作品数十点の硯作品や津波後の作品、妻ゑみ子さんのちぎり絵、娘さんの一筆画がギャラリー一杯に展示され、来客者の感銘を受けていた。
天皇陛下に献上された同じ作品の硯を拝見し、形といい、光沢といい、重厚な作品には思わずうっとりしてしまった。
当時杉山様は硯会館に、妻ゑみ子さんは自宅にいた。

地震後津波が来るまでゑみ子さんは、夫の帰りを待っていたという。
まわりから早く逃げなさいと言われたが、「いつも一緒だから、帰ってきたら一緒に逃げる」と言って、刻々と時間が無くなってくる時を祈り続け、あの津波が押し寄せてくるまで夫の帰りを待ったという。
津波で何もかも流されてしまったが、皆様の支援のもとに作品展が開催されたことは本当にありがたいことだ。
この支援の輪を、皆様とともに継続し、復興の年にしていきたい。