2012年11月11日日曜日

石巻牡鹿三十三札所霊場詣り

このほど松厳寺永井副住職から、震災復興祈願誌「私の奥の細道」《千年忌供養の旅》という冊子をいただいた。
奥の細道と言えば、松尾芭蕉が晩年、深川から日光、須賀川、松島、平泉、山形、金沢、大垣へと150日間もの長旅をし、句を詠んだので有名である。
宮城には、白石、仙台、松島、石巻、登米を経由している。
誰もが知る句は、
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
「夏草や 兵(つはもの)どもが 夢のあと」
「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」
「五月雨を あつめて早し 最上川(もがみがわ)」
のところであろう。
この石巻牡鹿三十三札所霊場のほとんどが震災の影響で被災した。
一部改修も行われているが、沿岸近くにあるところでは、かさ上げ工事の問題もあり進んでいないところも多い。
お寺さんは今回の大震災で多くの住民を受け入れてきたことから、今後の指定避難所としての役割も大きくなっている。
今回この霊場詣りは1日ではまわりきるには厳しいが、何日かのコースでゆっくりと住職さんと語り合いのも心が和むのではなかろうか。

2012年11月8日木曜日

さんま漁船

県内屈指の漁獲漁を誇る女川港にさんま漁船が着岸した。
例年は30,000tもの水揚量だが、h23年は前年対比で35%の9,200tしか水揚がなかった。
今年も不安されたが、この時期の大漁に市場が活気づき、地元水産会社などに取引されていた。
住民も待ちに待っただけに、おいしいさんまが食べられることで活力が湧いたに違いない。
女川町は、いわし類やさば、さんま、さけ・ますが主流で県内でも屈指の漁港の町であった。
現状は県の水産業集積拠点の一つに上げられ整備が進められているが、依然進捗が悪く心配の種
が消えない。
他漁港も同じように、h23年は石巻は20%、気仙沼が26%と大きく落ち込んでいる。
特に石巻のかつおの水揚げはh23年の前年対比で10%の2,500t、さばも10%の3,500tとかなり落ち込
んでいる。
沿岸の町は、水産業が主流な伝統文化の町である。
そこから漁なしでは死に絶えた町と化してしまう。
今は中規模の企業の再生に国や自治体から助成が行われているが、小規模な中小企業にも再生資
金が必要だ。
国は事業者再生支援機構を立ち上げたというが、それを生かされていない状況を判断し支援制度
の枠を広げなければ、企業の再生はもちろん有り得ないし、雇用にも繋がって来ず、町は衰退し
てしまう。現場の声を是非聞いていただき、状況にあった支援策を打ち出してほしい。

2012年11月6日火曜日

みなとふとん店

石巻市湊地区の老舗のふとん店がある。
ここの地区では住民に信頼が厚く、我が家でもお世話になったところである。
ふと昔のことが過ぎり、お店に入ってみた。
話しをしているうち、名前がようやく出てきた。
それもそのはず、「みなとふとん屋さん」といつも言っていたので、名前をド忘れてしまった。
自宅工場を流され再開するか迷っていたが、地区住民をまわり、ふとんの打ち直しをしている最中に皆さんのために出来ることはこれしかないと、決心がついたのだという。
プレハブは中古で購入、物置も外国人ボランティアに作っていただき、細々と営業をしている。
個人商店では何をするにも経費がかさむ。お得意様と言われる住民も被災し、ここを離れて仮設
住居に入居したりしている。そのため今では仕事がめっきりと少なくなり、継続するか悩み始め
ているという。
立ち上げたとして、継続できる状態になるまでは時間が相当かかってしまう。復興が完了するま
で継続できる企業が何社あるのだろうか?
不安な将来を見つめ頭を抱えて仕事をするのも、とても辛いことである。

2012年11月5日月曜日

日本女性会議仙台特別プログラムで南三陸ホテル観洋女将が語る

10月26日(金)から3日間、仙台国際センターで日本女性会議が開催された。
震災から1年半が経過し、これからのまちの復興には女性の参画が必要だと、被災地で支援にかかわった女性たちが全国に向けて被災直後、現状や課題を全国に向け発信した。
その中で、南三陸ホテル観洋女将 阿部憲子さんらパネラー5人とともに震災直後から支援活動の様子などを生々しく語った。
女将は、震災直後の宿泊客のこと、地元住民の二次避難所として懸命に支え合ったこと、そして復旧・復興に向けて皆さんの繋がりを大切にして行きたいことを発信した。
限られた時間の中で、はっきりとした口調で語られたことは、聴講者はもちろんのこと全国の皆さんにも届いたにちがいない。
南三陸ホテル観洋女将 阿部憲子さんの記事は、この【縁】創刊号で逸早く詳細に掲載している。是非ご購入していただきたい。

2012年11月4日日曜日

交番設置の署名活動

石巻市不動町から鹿妻地区までの一帯で、仮設交番設置の署名活動がされている。
以前は伊原津にあったが被災してしまい、ここの地区には1年7か月もない状況が続いている。
「今年中には設置してほしい」と住民の要望もあったが、いまだに設置されていない状況が続いている。
日中のパトロールだけではなく、夕方以降のパトロールも強化してほしいのが、地区住民の本音だ。
女川海道国道398号線を登下校する子どもたちも多いうえ、交通量も以前よりは増えている。しかも沿岸部では街灯が設置されていないところも多く、心配の種が消えない。
またある住民は、「夜になると誰もいないはずの隣家で物音がして心配で眠れないので夜もパトロールを強化してほしい」と言っている。
これからが復興に向かっていくうえで、「安心・安全なまち」への取り組みも同時に重視するべきである。

2012年11月1日木曜日

宮城県水産業拠点化以外の港は82港

宮城県は昨年暮れに、漁港再編について2013年度までに水産業集積拠点漁港として、気仙沼、志津川、石巻、女川、塩釜の5港の整備を上げている。他漁港より優先して整備をするとしていたが、あと何年かかるのかという深刻な状況である。
これには沿岸道路整備も進まず、地盤沈下したままの道路状況で資材の搬入が進まないことが上げられる。また資材の高騰により調達が難しくなってきているためである。
沿岸拠点漁港については55港ある。
こちらは養殖や加工場を集約し、流通・直販機能を備え6次産業化を目指した整備をするとしている。しかし一向に進まぬ被災企業への支援は、町の衰退化にもつながることだけに、国や自治体の一層の対策を講じる必要がある。
拠点以外の漁港は82港ある。こちらの整備は後回しになる。
漁業者は1tや2t足らずの船で沿岸に出て漁をする。小さな船に満杯にし遠くの漁港まで運ぶには、雨風の時期の危険性が高まり、心配が増す。自港においては、荷卸し作業も危険が高待ってしまう。
県の整備計画の中に、「復興予算が認められれば・・・」「国と協議をして・・・」「立地に困難なことから・・・」と記載されている。
誠に残念なことである。
このようにして、整備計画が遅れていくのだろう。何とも地元にとっては辛いことである。

2012年10月19日金曜日

石巻市立湊第二小学校、湊中学校

震災の影響で、石巻市では小学校、中学校の統廃合の計画がなされている。
小学校では、43校のうち、10校が間借りし、統廃合の対象となっている。
中学校では、21校のうち、4校が間借りし、統廃合の対象となっている。
写真手前に見える湊中学校は、現校舎をH24年度中に改修することになっているが、付近の解体作業やかさ上げ工事が進まず、難航が予想される。
写真中央に見える湊第二小学校は、湊小学校と統廃合されることが決まっている。しかし湊小学校もH24年度中に改修するだけにとどまり、どれだけ震災に対しての減災があるのかは疑問が残る。
津波避難ビルの構造は、耐震性では安全性が確認されている構造物や、新耐震設計基準(昭和56年度施行)に適合しているものとあるが、この震災を目前にして施行基準は変わらないのが不思議である。
また今回は津波の影響を真面に受けた地区も多いことなどから、想定浸水深も自治体ごとの設定を見直す必要がある。例えば想定浸水深が1m以下で2階建て以上の階数とあるが、これはもはや想定外も論外である。自治体は国の基準に沿うものとしているが、責任は誰が追わなければならないのか、将来は誰のためにあるのか、考えていただきたい。

2012年10月17日水曜日

生き抜くための災害料理43

この程、【縁】別冊 災害料理本 が書店以外でも購読出来ることになりました。
仙台の奥座敷、秋保温泉『岩沼屋』です。
仙台市外から車で30分のアクセスで、こころと身体を癒す、親子・女性にやさしい天然温泉ホテルです。一度は行ってみたいスポットであります。
岩沼屋売店『勿忘草(わすれなぐさ)』のお土産コーナーの真前に置いていただきました。
直接手に取ってご覧いただけます。
岩沼屋の皆さん、ありがとうございました。
ここ『勿忘草』でしか手にはいらないオリジナル商品も多数あり、その他館内施設も魅力的です。
是非、秋保にお立ち寄りの際は、『岩沼屋』に足を運んでください。お願いします。

2012年10月16日火曜日

高橋水産の現状

何もかも流され消失した跡地に、昨年暮れプレハブを建て地元住民の手伝やボランティアの助け
を借りて再建にこぎつけた、高橋水産がある。
工場は三陸の津波の教訓を踏まえ10mの高台にあったが、それでも津波が押し寄せ何もかも奪っ
てしまった。
途方に暮れている中、お客様からの声援が再起を促し、8か月後には出荷が出来るようになった。
ここ三陸で取れるワカメやひじき、とろろ昆布、まつもは絶品である。
遠く関東にも出荷され、お客様の信頼は厚い。
しかしまだまだ震災前の状況には至らず、機械もそろわず手作業の状態だ。
特に今年のひじきは岩場に着きにくく、あまり多くは取れていない。また湯がいて自然に乾燥さ
せるので、時間も手間暇もかかる。
年内には出荷できるというが、『三陸の美味しい食べ物をお客様へ真心を込めて届けていきたい
』と語っている。

2012年10月11日木曜日

雄勝町雄勝地区

石巻市駅前から東北東に直線で約15kmに位置したところにある。
国の重要無形民俗文化財でもある法印神楽や、雄勝硯でも有名な黒色粘板岩(玄昌石)の産地でもある。
人口は震災前は4500人ほどいたが、亡くなった方や市中心部の親戚や知人に移り住むなどで、1500人まで減少した。
ここ雄勝小学校は、廃墟と化してしまった。
全校生徒が100人足らずの学校ではあったが、海があり、山があり、活発な子供たちが遊んでいく情景が浮かぶ。
夏にはおがつ夏祭りがあり、大人たちと遊び駆けずり回り、町民一体で盛り上がっていた。
まだ進まぬ代替え地の問題、仮設住居の空の問題、漁業の問題など山積みである。
故郷を離れなければならないことは辛いことだが、子どもたちの責任ではない。
大人たちが、街を再生するための問題を解決していかなければならない。
自治体や専門家でつくる協議会での整備計画では過疎化が進む一方である。地区住民との意見の吸い上げが何より必要である。

2012年10月10日水曜日

朝臣宮(あそみのみや)

北上川河川敷を歩くと一際目立った鳥居があった。
後醍醐天皇の子、護良親王(もりよししんのう)が牡鹿に着いた時その護衛にあたった日下氏・日野氏・平塚氏等忠臣の家を祀った神社といわれている。
津波で全てが流失してしまったが、地区住民の力でここまで復旧した。
大門崎には一皇子神社や、零羊崎神社(牧山神社)があるが、正直何度も足を運んでいても分からなかった。
西暦1300年代この場所は『御所浦』と呼ばれていたが、今では町名は「湊町」になっている。
牧山神社に行く途中に、「御所の入」という地名が今もあるが、その名残であろう。
ここもかさ上げの対象地区となっている。

2012年10月9日火曜日

ススキ

がれき撤去後の荒廃した地域に、ススキが生い茂っていた。
今年の猛暑の夏からは一変して秋がやってきたようである。
秋の澄みきった空に生えるススキは、少しものさびしい感じがする。
至る所に生え、いつもお辞儀をしているようで悲しい。
この辺り一帯には、雑草が一面に生い茂り、草刈りも大変だ。
ボランティアが中心に除去しているところもあれば、お爺さんお婆さんがせっせと草刈り鎌をもって後片付けをしているところもある。
ここで生きるか第二の土地で生きるかは、それぞれの判断ではあるが、長年住み慣れた土地や住居を離れるのは誰しもが辛いことだ。
秋の夜長にお月を眺めると、ふと目頭が熱くなってしまう。

2012年9月24日月曜日

石巻北上川河川敷

緊急を要するのに、いまだに河川敷の堤防はコンクリートのパネルが設置されているままだ。
今年初めに設置されたが、本格的な作業は一向に見えてこない。
何がそこまで遅くしているのだろうか?
自治体の人手不足なのか、整備できる業者がいないのか、入札の問題なのか、復興予算はつい
ているが、これでは近隣住民は不安でどうしようもない。
沿岸部での整備事業の中に、公園整備や企業誘致など入っている地区もある。しかし人命を第
一に守るうえで、ハードの整備事業を早急に解決しなければならない。
またいつか想定外の津波が襲うかもしれない。1000年に一度とはいうが、想定外に備える事こ
そ国の責任が問われるのである。
東日本大震災は、想定外のことを着手しなかった国の責任の人災だったに違いない。

2012年9月23日日曜日

河川敷の船

30tもある巨大な漁船が津波の力で陸地に上げられた。
ここは石巻市湊町の一角である。
1年以上もこの状態で、雨や雪、風にさらされ、廃船となった。
跡地には燃料が漏れ、匂いが一角に染みついている。
今は更地となったが、いったいここには何があったのだろう?
水産加工会社?または一般住宅?今では記憶も定かではない。
人間の記憶は不思議なもので、今まで何年も通っていたいたのに、店が無くなったりすると、
ここは昔何があったのか?と思い出せないことがある。
特に大きな街はそのような傾向がある。
次から次へと新しいビルが建ち、昔のお店のことなども思い出せなくなる。
ここの地区は、周りの建物も取り壊され、かさ上げ整備をすることになっている。
様々な整備計画が進むにつれ、記憶がだんだんと薄れてくるのが辛くなる。
復旧・復興元年と言われているが、被災地沿岸部ではまだまだ遠い先のことである。
全国ニュースに取り上げられる割合が極端に減ったせいか、復旧したのかと錯覚すらしている
。未曾有の大災害から1年半が過ぎ、国民の記憶が薄らいできているのは確かである。
復旧・復興の整備計画は10年である。いやそれ以上の年月がかかるのは間違いない。
現実を見続けることは辛いことだが、このことはしかと受け止めていいかなければならない。

閑散とした市場内

ここは石巻市にある仮設市場。まったく活気がない。
以前は毎日のように、10t、20tクラスの底引き網漁船やトロール船などが着岸し水揚げをしたが、現状はこの通りに殺風景だ。
h22年度の漁獲量は11万tで県内ではトップであった。しかしh23年度はわずか1.7万トンの16%に過ぎない。
震災以降、仙台のスーパーでもほとんど三陸産の魚は見受けられない。
北海道産や新潟産、外国産のパッケージが目立っている。
風評被害の影響もあるが、圧倒的な影響は壊滅的被害を受けた漁船の数だ。
13,500隻もの数が、わずかに1,500隻ほどの漁船数に減り、操業が出来ない状況になったためである。
最近では、様々な支援団体により小型漁船が各漁港に寄贈され、漁師たちは近海での養殖や漁に出航しているが、まだ操業をしているところはまれである。
来年9月に漁業権の申請時期とも重なれば、仮設住宅で暮らしている漁師の漁業権はどうなるのであろうか?内陸に住んで漁師としてやっていけるのであろうか?
来年もまた心配の種が尽きない。

2012年9月21日金曜日

愛と絆

 玄昌石で掘られた「愛」と「絆」。
雄勝町の伝統雄勝硯職人 杉山澄夫先生の作品の一つである。
昨年はこの言葉をメディアを通じ、何度も聞いた事を思い出した。
全国の被災地への支援者から、またボランティア活動を通じて支援してくださった方々、自治体や企業からも聞こえていた。今は音沙汰なく静まり返っている。
甚大な被害をもたらしたこの震災で、全国民が一つにまとまり、復旧・復興に全力を挙げるといったのに、今は切ない言葉に聞こえてくる。
仙台市内と沿岸部との温度差もありすぎる。実際そこに居住していなければ分からない被災地住民の苦しみが、時間とともに脳裏から薄らえていく。
今何をすべきなのか、我に返って振り返ることも大切なことである。

2012年9月20日木曜日

被災自動車の処理

まだまだ進まぬ被災自動車の山がいたるところにある。一時期よりは少なくなっているが、まだ多くの自動車が散乱している。
広域処理により県外に搬出する場合や、県内外のリサイクル業者に処理をする場合がある。
自動車メーカー側での処分はどうなのであろうか?見ない部分がある。リサイクル法に基づき処理しなければならないとあるが、この想定外の震災で処理は一向に進んでないと言える。
リサイクル業者は、各市町村からの入札を受け、一番高値を付けた業者に依頼する。
自動車リサイクル法による処理となるが、県内外のどこの場所で処理されているかさえ見えない部分がある。入札結果を見てくださいと言われればそれまでだが、メディアでも大きくは取り上げてはいない。
リサイクル業者はパーツごとに取り外し、それらを中古パーツとして販売する。また自動車整備業者や、海外のバイヤーに提供したりする。
本体の解体処理は鉄・非鉄部分や廃車ガラに分別し、今度は破砕業者に引き渡される。そこから、日本での加工や海外での加工と工程が入ってくる。
これは何処で処理されているかさえ、もはやお手上げである。
一般ごみなどのがれき処理については、県内外や広域処理などをし、放射能が検出され問題でなかったことを公表しているが、被災リサイクルについても、最終処分までの公表をすべきである。

第2回笑顔のチカラ。みんなで東北応援

9月15、16、17日の3日間、東京有明にある、パナソニック㈱ パナソニックセンター東京にて、「第2回笑顔のチカラ。みんなで東北応援」が開催されました。
そこで【縁】の創刊号から第3号、そして「生き抜くための災害料理43」を販売していただきました。
伊達武将隊も駆けつけ、応援して頂きました。
ありがとうございました。
この日は、お父さんお母さん子供たちと、こけしの絵付け体験などで盛り上がったそうです。
被災地の力、東北の力を日本全国にお届けしましょう!

2012年9月19日水曜日

人っ子一人いない海水浴場

素晴らしい光景だ!
雲一つない真青な空に、エメラルドブルーの海。
一昨年までは家族連れでにぎわっていた海水浴場だ。
手前には無数のテントが張られ、子どもたちや大人たちの声が地区全域に響き渡るぐらい盛り
上がっていたところだ。
遥か彼方の洋上から海面が盛り上がり、手前の岩を遥か高く15mもの津波が押し寄せた。想像も絶する光景だったに違いない。
砂浜は家屋や納屋の残骸で敷きつまり、足の踏み場もなかったという。
幸い亡くなった方はいなかったというが、声にすら出なかったことであろう。
元通りの光景は何時になることだろうか?来年になるのか?私たちの時代には来るのであろう
か?果たしてこの光景のままなのだろうか?

2012年9月18日火曜日

天草市からの支援活動

今回第3号で熊本県のNPO法人九州救助犬協会を取材したが、第2号で東松島市を取材したとき復興対策室に掲げられていた天草市のことを思い出した。
市章には逸早く支援活動した市職員や一般の方の応援メッセージがびっしりと書き込まれ、みなさんの思いが込められている。
がんばれ東北・がんばれ日本。全国民が一体となり、復旧・復興に向けての絆の第一歩だ。
あれから1年半が経過し、その後はどうなのであろうか?
被災地では整備計画が策定されそれに向かって進んでいるが、様々な問題で一向に進まぬ現状が続いている。
数多くの課題を一気に解決することは難しいとはいえ、一つ一つ前進しつつあるように見える。
もう一度このメッセージを想いだし、継続的な支援に取り組んでいこう!

2012年9月17日月曜日

消波ブロック

河川敷や海岸線沿いに、このようなテトラポットが沈められている。
波消しブロックや、商標登録されているテトラポットど呼ばれていることもある。
大きさは2m~3mあり、防波堤と一緒に設置している割合が多い。
ここのブロックには小さな瓦礫がたくさん埋まり、海面との境目がまったく分からなくなってい
る。
つい最近までは、大きながれきが溜まっていたが、福幸建創 藤吉裕二氏ひきいるボランティアの力で大方取り除かれた。
沿岸部を走ると、このような光景が至る所に散在している。海にはどれだけのがれきが埋まっているのだろうか?想像すら出来ない。
日本国土の沿岸はすべて海で覆われている。恵まれた海の産物に私たちはどれだけ助けられてきたのだろうか?少しずつでも回復を願っている。

2012年9月16日日曜日

沿岸部の光景

震災から1年半。沿岸部地域では、まだ解体が行われていない地区も多く残っている。
写真奥に見える工場らしき建屋、右手には一般住宅も取り残されている。
聞くところでは、解体も順番待ちのようである。地元業者、県外業者が入り乱れての作業となっている。
地盤が沈下し、かさ上げ工事も一向に進まぬ現状では、まだ明かりが見えてこない。
この地区では約1mのかさ上げ工事をすることになっているが、解体作業が進まぬ現状では大幅に時間がかかりそうである。
左手にはすでに6mの高さの堤防が気付きあげられているが、今回の震災ではこのはるか上を津波が押し寄せた。しかし、今回計画されている堤防の高さは7mであるが、果たして妥当なのか疑問が残る。
また近くの県道女川線の道路も約1m高くする計画がある。地区住民には計画は聞かされているが、着工時期が不明である。
住民説明会は年末から7月にようやく再開されたが、また地区に寄り途絶えている。説明不十分のままで、また年末が近づこうとしている。

2012年9月15日土曜日

渡波長浜町防波堤付近

港湾整備が進む中、防波堤付近には震災した船のがれきが未だに残っている。
2t、3tクラスの船の山や、桟橋などが山積みされ、まだまだ先が見えぬ現状が続いている。
渡波港は、よく釣り客が朝早くから訪れ、投げ釣りや釣り船で沖合に出掛け、大物釣りをするスポットとして有名である。
アイナメやイシガレイ、マコガレイなどが釣れていたが、震災以降の話は全く聞こえてこない。
海底岩盤が下がり環境も変化したようで、以前のような魚は入なくなったと話す町民も多い。
震災以降、地上でも海底でも生物は生きていくのが必死だ。この環境下で、生命は後世に受け継がれていくのだろうか?

2012年9月14日金曜日

復興へ祈りを

石巻湯殿山神社に参拝してきた。
ここは出羽三山湯殿山神社の分霊社である。漁業の町、石巻地域の漁の安全と豊漁の神社として知られ、境内には恵比寿様が祀られている。
震災当日は津波の影響で会館は半壊したが、社殿の被害が軽微で済んだのは幸いである。
何度か参拝しているが、社殿両脇に今までなかったのぼりが設置してあった。
宮司さんに聞くと、明治天皇が詠まれた和歌だという。御製(ぎょせい)とは天皇が呼んだ和歌のことである。
明治天皇御製
千早ぶる 神のひらきし道をまた 開くはひとのちからなり
人は試行錯誤しながらも誰かが通ってきた道を、自分自身で考え、選び、悩み、進んでいく必要があり、その結果そこから道は開けるのだ。
というのだ。
日本全国から様々な支援が今でも被災地に送られている。これは本当に大変ありがたいことである。この支援は、私たちそれぞれに役目があり、国や自治体、企業や市民の協力なしでは前進はあり得ない。
負けねえぞ!頑張っぺ!

2012年9月13日木曜日

何処からか流れ着いた干支

石で彫刻された干支が松厳寺境内に置かれている。
持ち主不明、作者も不明である。延々と流されやっとのことで辿り着いたここが、安住の場がだったのかもしれない。
よく見ると7体しかない。他はきっと引き波で、海の底に沈んだに違いない。
神社などでよく見かける干支だが、意外に小さく1体30㎝位の大きさである。
近くには熱田神社があるが、ここから流されてきたのだろうか? ここも津波で跡形も無くなってしまい、誰一人として分からないままである。
今ある7体は太陽の光をたくさん浴び、被災地住民に勇気と明るさを祈っているだろう。また今は無き5体は、海の底でまだ見つからぬ行方不明者を案じ永遠に弔っていることだろう。

ヤマユ佐勇水産

石巻市明神町に自力で再開したヤマユ佐勇水産がある。
魚を味噌漬けや粕漬けに加工して販売する工場でわずか5人で操業している。
ここは石巻漁港からすぐ近くでわずかに200mと離れていないところで、工場は全壊した。
しかし高校生や一般の方々のボランティアの力を借り、昨年末にようやく再建した。
ちょうど昨日は震災から1年半の11日であり、福岡大学からの学生ボランティアらで賑わっていた。
水産加工は卸ルートが開拓されなければ販路は難しい。特に小さな会社は販路開拓には血の滲むような活動をしていかないとスーパーなどへの卸は難しいといえる。
ネットショップがあれば一般客にも購入者は増えるだろうが、ここでは行っていない。する暇などない状況であるという。
地元石巻市以外にも、支援活動していただいたボランティアの方々にも好評で、日本全国から依頼がある。
是非、問い合わせしていただきお買い求め頂きたい。
(有)ヤマユ佐勇水産
〒986-0027
宮城県石巻市明神町1-5-36
電話:0225-93-5575
 FAX:0225-93-5877

2012年7月2日月曜日

河川敷復旧工事

河川敷の復旧工事の着工が大幅に遅れている。
国、県、市の管轄があり、連携して復旧工事を進めるにも入札があり、そこには積算基準となる試算がある。それを熟すだけの人員の不足があり、工期の完了は計画通り行くのか懸念される。
それぞれの管轄での整備計画はあるが、いずれも国が基準として整備計画を立てた上のもので、甚大な被害状況からみれば、地域により状況は明らかであり、復旧作業も進まないのが実態である。
道路整備、沿岸部整備、護岸整備、河川敷整備と段階ごとに入札がある。
しかもブロック分けとなると相当数の地域があり、何処まで業者が担うのかも疑問がある。
また地区住民との説明会などは、話しがかみ合わないケースが少なくない。かさ上げ工事も1mから70㎝へ引き下げる、この地区は防波堤を高くするからかさ上げしないなど、行政の対応もまちまちである。
整備計画は住民が主体となるのか、行政が主体となって進めていくのか、それにより将来のまちづくりが大きく一変する。
故郷がなくなってしまっては、帰るところがなくなってしまう。
子どもたちのための、将来のためのまちづくりを進めてほしいと願う。

2012年6月11日月曜日

縁側で「こんにちわ」プロジェクト

愛島地区で昨年12月から支援活動を行っている東北大学大学院文学研究科 名嶋先生にお伺いした。
先生は個人的には8月から支援活動を行っていたが、12月から学生スタッフ数名と本格的に活動をしてきた。
「何もできない私たちですが、お茶を飲みながら会話をすることによって、言葉と言葉のコミュニケーションが生まれます。そこから被災者の輪が出来上がりますし、目には見えない形ですけれど、これからも支援していきます」
と語ってくれた。
がれき撤去など目に見える形ではないが、心と心が通じ合うことも支援の一つであり、被災者を心強く守ってあげられる。
愛島地区は閖上地区の一部が居住しており、生活環境も一変している。
イベントで、お花教室やヨガ、演奏会など市民団体と協力して支援も行っている。
まだまだ険しく長く続く復旧・復興に、心がかよう支援を継続して届けていただけるよう、私たちも支援していきたい。

2012年6月6日水曜日

石巻市のがれきの量

先立て宮城県の市町別がれき量の見直しが発表された。
当初は全体で1,107万tだったのに対して、431万t少ない676万tになった。
その内、石巻市は273万t少ない308万tである。
当初沿岸部の被災した家屋はすべて解体し、かさ上げをすることに決まっていたが、地区により修復して住めることになった。そのため相当数の減少につながったわけである。
しかし、これだけのがれきの量があちらこちらに散在し、焼却してもその焼却灰の処理にも問題があるので、たやすくは安心できない。
しかも家屋の現地再建が地区によりバラバラなので、かさ上げも一向に進まず、復興整備計画の見直しも余儀なくされる。
今後は、いかにして早期な処理と再建を住民とどのように進めていくのか?集落全体が消滅してしまうケースも考えられるので、定期的な住民説明会で具体的な方向性を示していただきたい。

石巻市川口町から市立病院を望む

まだ所狭しと木材や船の残骸が横たわっている川口町の河川敷きから、遠方の石巻市立病院を眺めてみた。
3.11で津波の被害を受け診療はしていなかったが、5月30日に仮設住宅がある開成町に仮診療所として開所した。
また今後の新私立病院の建設場所は、石巻市駅駐車場敷地に決定している。
2013年度着工、2015年度完成の予定であるが、もっと早く着工できないのかという疑問が残る。
震災年には候補地は何ヶ所かあった。
その中で御所入山付近には測量しにき、広さも十分だったという。しかし結局はずるずると時間がかかってしまい、2012年新たに地質調査から始まったわけである。
地質調査から基本設計までは約1年間かかる。そしてその後の着工で約3年間、計4年間もかかってしまうことになる。
市は4年間も待っていられるものなのか?ということを住民の目線で物事を捉えていただきたい。
いま住民にとって必要なものは何か?何を求めているのか?石巻市はどうなっているのか?
住民には色濃く不安が残っている。少しでも心が和らぐことを望む。

2012年5月25日金曜日

石巻市の現状

ここ石巻市では、12月を最後に5か月も住民説明会がないままの状態である。
一向に進まない現状がここにきて地域間の格差が生じている。
住民も半ばあきらめ顔で、独自にリフォームや再建に動いている。
災害公営住宅は1万5000戸、そのうち石巻市が4000戸であり、平成27年度までずれ込むこ
とが判明した。
場所も不確定で、沿岸部から遠い地区に居住となった場合、一時期仮設住宅の設置場所

で問題があった場合と同じになるケースが予想される。
多額の予算を投じる前に、十分検証して被災者のための整備を是非行ってほしい。
また石巻市は水産加工の町でもある。
指定拠点漁港の整備だけではなく指定から外れた漁港の整備、そして中小加工業者への

逸早い再建への助成を行っていただきたい。

2012年5月24日木曜日

笑顔(^0^)届け隊!

毎月、第2・第4の週末、石巻市に復興支援に来ているボランティ団体がある。
笑顔(^0^)届け隊!(代表:藤吉裕二氏)である。
埼玉県川口市に本部があり、既に26陣の支援活動を行っている。
支援物資の提供から、炊き出し、今でも続くがれきの撤去や側溝掃除など支援活動を継続している。
4月28日には、松厳寺境内で一足早くこいのぼりや屋台を準備、子どもたちは元気な笑顔をみせ駆け回っていた。
子どもたちの笑顔は、大人まで元気づけてくれる。
無邪気に遊び、笑い、語らい、笑顔が自然とあふれてくる。
この一人ひとりの支援が、全国民の絆となり、継続していくことを強く希望する。

2012年5月16日水曜日

石巻市沿岸部のかさ上げ

石巻市では沿岸部地域の建物を撤去しかさ上げ工事をすることになっていたが、現状で建築物の改修が進められる地域もでてきた。
松並地域に住んでいる住民からは、建物の撤去もせず、かさ上げもせず、そのまま建物の改修工事をし住めることになったという。
女川海道398号線より沿岸部の地域は、1mほどのかさ上げ工事をすることになっていた。
この地区は一般住宅や中小企業の建物が立ち並んでいるところで、全壊した家屋もあったが、半壊の建物も相当残っている。
今ではかさ上げもせず、1階の補修工事を進めているところも数か所ある。
どういう基準で整備計画が変更可能になったの?住民への説明会がないまま進んでいるのか?
いくら防波堤の高さを6m~7.2mにしたからといって、決して安心できるものではない。
明確な基準を示してほしい。

2012年5月9日水曜日

がれきの山

ここは石巻市のがれき置き場。
天高く、あちらこちらで積み重なったままのがれきが残っている。
4月になって、がれきの受入れをする自治体も増え、10年計画で策定した復興計画に目処が出始めた感じだ。
しかし沿岸部では、まだ解体していない建造物がやたらと目につく。
公共建築物、民間工場建屋、一般住宅、車、船、海のがれきなど順次撤去しなければならない。
これからもまだまだ続く解体作業、かさ上げ工事、河川工事の復旧に高台移転の取り組みなど、課題があまりにも多い。
ハード面が整備されたとしても、ソフト面ではどうなのか?
沿岸部での就労問題は実に深刻である。
加工場の被害を受け、中小の下請け会社が再開できるかも危ぶまれている。
今まではそこには地元住民の力があったのだが、人口も減少し、他地区へと移住する方々も決して少なくはない。
また沿岸部では外国人就労者の方も多く、今後の取り組みも真剣に考えていかなけれなならない。
この未曾有の災害により、日本国民が一体となって取り組んできている。
この絆の取り組みを大切につないでいきたいと考える。

2012年5月8日火曜日

沿岸部の解体建物

石巻市沿岸部では、一向に解体が進まない建築物がまだ多く取り残されている。
一般家屋、工場建物、公共建築物など、本年度から解体作業が進んでいるが、分別をしながらの撤去はまだほど遠い現状のようだ。
小中学校の校舎も高台に移転するところもあれば、統合されるところもある。そして解体し、その場所に建てるというところもある。
解体作業するまでで1年、建築がはじまって再開できるまで2年を要するという。
しかも、かさ上げもしなければならず、はたして町は10年で復興するのであろうか?
被災地住民は地元で復興をと願っているが、若者や子供たちが沿岸部から遠ざかり、人口の減少が著しい。
仮設住宅に入居した住民は、戻るのか、それとも別の地区で生活を共にするのか?
町は高齢者が多くなり、終いには過疎化となり、町は廃れ文化も何もかもなくなってしまうのか?
まだ将来が見えずじまいだ。

2012年5月6日日曜日

雄勝町の水門

漁港近くには防波堤と水門が一体で設置されているが、この3.11の震災で津波の影響でほとんどが人命を守ることがなかった。
十数メートルもの高さの津波で防波堤や水門が破壊され、沿岸部の住居を瞬く間に呑み込んでしまった。
ここまでは波は来ないだろうという住民の行動にも問題があったが、減災できるプログラムを早く立ち上げることが重要である。
石巻市の方針は、ここまで波が来たから、高台に移転し、住居を構える。それだけでは昔ながらの文化や社会が消えてしまう。
もう少し故郷という町を大切に残していく文化を築いていかなければならないのではなかろうか?
近代的な町に戻ったとして、憩や安らぎが心の底から湧いてくるのだろうか?
町として、人として、掘り起こせるものは早く進め、それぞれの文化の発展に努めるべきである。

2012年5月5日土曜日

高橋商店作業風景

3.11の津波により被災した高橋商店が、3月末日に養殖ワカメの出荷にこぎ着け、GW連休も返上で得意先や全国の注文者への作業で追われている。
震災で倉庫や工場が被災し、何一つなくなった状況からここまで立ち上げることになった経緯は並大抵のことではない。
多大な借金を抱えてまでの創業は、やるべきなのか?いっそ店じまいをした方が楽ではないのか?と半年間悩んだ末の決断であった。
ワカメやヒジキ、とろろ昆布が食べたいと、全国から寄せられた励ましの電話や手紙をいただき、お客様の声が高橋水産の復興に力付けをしてくれた。
今や2代目社長が営業に駆けずり回っている。石巻市はもとより、仙台市や大崎市でも三陸産ワカメとしてスーパーや商店街などで販売されている。

9月には、天然もののヒジキが収穫できるという。
1年半もの時間が経ってしまったが、楽しみにしているお客様のためにも、雄勝町の特産物を届けることができると、一家総出で作業に追われている。

2012年5月4日金曜日

杉山澄夫先生作品展

4月29日(日)大崎市民ギャラリーで杉山先生の作品展が開催された。
津波から掘り出された作品数十点の硯作品や津波後の作品、妻ゑみ子さんのちぎり絵、娘さんの一筆画がギャラリー一杯に展示され、来客者の感銘を受けていた。
天皇陛下に献上された同じ作品の硯を拝見し、形といい、光沢といい、重厚な作品には思わずうっとりしてしまった。
当時杉山様は硯会館に、妻ゑみ子さんは自宅にいた。

地震後津波が来るまでゑみ子さんは、夫の帰りを待っていたという。
まわりから早く逃げなさいと言われたが、「いつも一緒だから、帰ってきたら一緒に逃げる」と言って、刻々と時間が無くなってくる時を祈り続け、あの津波が押し寄せてくるまで夫の帰りを待ったという。
津波で何もかも流されてしまったが、皆様の支援のもとに作品展が開催されたことは本当にありがたいことだ。
この支援の輪を、皆様とともに継続し、復興の年にしていきたい。


2012年4月25日水曜日

雄勝町仮設住宅

県内には、406地区22,095戸におよぶ被災者が避難している。
雄勝町の仮設住宅場所は、雄勝、水浜、立浜、大須、峠崎、名振の6地区あるが、ここは雄勝地区の仮設住宅である。
石巻雄勝支所から車で約10分の森林公園内に建てられている。
奥まったところで、車やバイクでないといけない避難所である。
応急処置としての仮設住宅なので仕方ないと思うが、あまりにも町中心部から遠すぎ、雄勝支所内にある仮設店舗までの買い物が不便すぎである。
まだ一向に進まぬ高台移転についても、場所が決まらずのところも多い。
今後何年か住み続けていかなければならないが、今年は復興元年、まちの復興と活性化を願うばかりである。

2012年4月24日火曜日

雄勝硯工人-杉山唐龍斎-

杉山澄夫さんの作品展が、宮城県大崎市民ギャラリーで開催される。
震災以前の作品は津波で流失し、何一つ残らなかった。
600年も続く伝統の硯が消えかかっていた。
そこに雄勝町住民の伝統文化を残してほしいと後押しや、避難した大崎市の住民の支援も受け、昨年10月半ばからの製作が始まり、数十点ほどの作品が出来上がった。
この個展には私も是非行ってみたい。
実は杉山澄夫さんの自宅まで行き、あれこれと作品を見せていただき購入した経緯がある。
重厚で気品のある伝統の硯を今一度見てみたい。
場所は、大崎市民ギャラリー緒絶の館・蔵で、4月27日(金)から29日(日)までとなっている。

2012年4月23日月曜日

沿岸拠点漁港以外の地区

ここは雄勝町荒浜。
浜辺奥には荒々しい岩山がそびえ立ち、その海岸には岩のりやつぶ、がんじ(うに)がとれる豊富な漁場がある。
しかし今は鉄骨の残骸や魚網が散乱し、行く手を阻んでいる。
消波ブロックも磯の中ほどまで移動していて、元に戻すのも時間がかかりそうだ。
3.11により宮城沿岸部の光景は大きく変わり、砂浜も海岸も住居地も一変し、あの昔の光景が懐かしく思える。
元に戻せるのか、このままの姿なのか、まったく様変わりするのか、今や若い世代が中心となり復旧・復興に向けて取り組んだいる。
時間がかかるにせよ、安心な安全な町として、そして沿岸部の文化を取り戻していきたい。

2012年4月22日日曜日

石巻市湊河川敷

石巻市湊地区は、造船所、鉄鋼所、製氷工場、冷蔵冷凍工場、水産加工場、建設会社
などの中小企業が集まっている地区である。
津波でこの地区は跡形もなく、何もかもが流されてしまった。
工場を建設中の企業があるが一部の企業だけで、他企業は被災したままの建物が残っ
ており、全く見通しが立っていないのが現状だ。
かさ上げ工事もいつになるか未定の状況だ。
復興計画によれば、平成24年6月末日までには河川敷の復旧は、被災前の堤防の高さ
まで復旧するなど被災前の堤防機能を確保し、その後5年間にわたり整備を実施する
としている。
しかし河川補修工事とともに、被災住居の撤去を行なわなければ事は進まない。
まだかさ上げするエリア内には被災した企業の建物や住居が残っており、解体するだ
けでも時間がかかる。
復旧状況の割合も、一般市民にわかりやすく告知していただきたいと願う。

2012年4月17日火曜日

石巻市雄勝町荒浜海水浴場

雄勝町総合支所から車で20分走らせると、海一面エメラルドブルーに輝く海水浴場がある。
いつも夏になると、海水浴客が仙台や県外からキャンプしに一時を楽しむ。
防波堤に行けば、投げ釣りや磯釣りで満喫し、海の幸で食し、テントで夜を語らう。
今年の夏はどうなるのでろうか?
津波の影響で防波堤は決壊、砂浜も浸食され、その両端には養殖網やタイヤなどのがれきが残っている。
一昔と比べると、見えていた三角岩が見えなくなっている。この近くに潜ると小さな巻貝がたくさん取れたが、今は取れなくなったのだろうか?
これも地盤沈下の影響なのか?
お盆には地元の若者が、わらで作った舟に飾りを施し、供養のため砂浜から泳いで沖まで流す。
今はもう行っていないのだろうか?
もう前を向くだけなのか。その町を復興するのは視かえしも必要なのではないだろうか。

2012年4月16日月曜日

雄勝町仮設店舗

雄勝町総合支所前に「おがつ店こ屋街」が昨年11月にオープン、11店舗が入居し営業している。
何もかもが無くなった被災地住民の唯一のショッピングモールである。
4月21日(土)には、物品販売やマグロ解体ショー&キャンドルフェスティバルが開催される。
時間は昼の部10:00~15:00、夜の部は16:00~20:30までとなっている。雨天決行。
マグロ解体ショーは12:00~となっている。
豪快な解体を味わっていただきたい。
各仮設商店街も土・日曜日となると地元ならではのイベントが開催される。
GWに足を運ぶのも、町の活性化に繋がってくる。
皆さんで支援していこう!

2012年4月15日日曜日

いまだに残る大型船

石巻市湊地区に、今も大型船が打ち上げられた状態で残っている。
近くには石ノ森萬画館や、写真奥に見える日和山公園などがある。
沿岸部の整地が段階的に進み、ここはすでに更地となっているところだが、撤去されていない大型船やモーターボート、大きなコンクリート破片が散在している。
この沿岸部では、商業地として計画され整地されたところだが、地区により住居も立てられるような方向が示された。
当初の計画が住民の意向により方向転換されたことにより、1mかさ上げを行うことになる計画が、今後どのような形で影響を及ぼしてくるのだろうか。
実際に住居も建てられており、かさ上げはしていない。
地中に埋まる様々な新設配管工事などに影響が出なければよいのだが・・・。